洛陽にて (19) by ひろ (ペンネーム: 結城 潤)

 京福北野線を帷子ノ辻で乗り換え嵐山本線を四条大宮行きで
一駅戻る。そこが太秦の駅だ。ここもまた観光客でにぎわっていた。
映画会社のアミューズメント施設があるからだが、昔からある
テーマパークの先駆者だといえなくもない。

 夢を売る場所。

 ひととき、自分をその喧噪の中に置くことで世の中の辛いことから
少しの間だけ逃避することができる。そこで生きる活力を取り戻せたら
また荒波の世間へ船を漕ぎ出す。
 ひとはそんな些細な避難場所で元気を補いながら、不本意ながらも
重い体を引きずって生き続けている。

 私は少し目眩がした。共感とも絶望ともつかない感情に捕らわれ
一瞬歩くことができなくなっていた。

「三邑はん、大丈夫?気分わるいのん?」

「ああ、すまない。ちょっと暑さにやられたかな。ごめんごめん。」

 私はつとめて元気そうに振る舞ったが、芙美子は怪訝そうに私の顔を
のぞき込んだ。

「ぎょうさん歩き回ったさかいに、疲れおしたんやわ。堪忍な。」

「大丈夫だよ。それよりはやく広隆寺までいこう。」

 弥勒。

 私は、芙美子がしきりに会いたがるその「彼」にかけることにした。
 私が恋してしまった芙美子という女性が抱えている心の闇を救済してくれるように。

 弥勒菩薩。釈迦の没後、五十六億七千万年後に末法の世を救済するために
この世界に降臨し衆上を救うといわれている。末世に至るほどの出来事とは
いったいなんなのだろうか。

 俗に言われる最後の審判をはじめとした終末思想はどの宗教にも存在し
その先には必ず神としての救世主が預言されている。

 私は常々宗教は個人の心の中にのみ存在するものだと思っている。
どんな救いの伝説も、どんな救世主の存在も個を生け贄にし犠牲にした上に
現れている。「私」の闇が救われなければ、「私の愛するもの」の心が
救われなければ信仰など無に等しい。私は自分に正直でありたい。
身勝手であり続けたいのだ。

 個を犠牲にし集団全体を救おうとする神の存在はあまりにも
ご都合主義に彩られていてうさんくさい。

「三邑はん、なに怖い顔してはるの。やっぱり具合わるいんとちがうの?」

 芙美子が組んだ腕に力をこめた。ほんとに気分が悪いのだと心配して
くれているようだった。

 どうやら私は弥勒に嫉妬しているらしい。非力な私の代わりに芙美子を
救ってくれるかもしれない、「彼」の存在に。

「大丈夫だよ。考え事をしただけだから。ごめんよ。」

 私は、それでも訝しげに私を見つめる芙美子の肩を抱き寄せた。
左手で芙美子の髪にふれながら、芙美子の右の頬に口づけをした。
 芙美子の肩から一瞬、力が抜けたが私の左手を握り手の甲に
キスを返してきた。

「誤魔化したらあかしまへん。ほんまにきつかったらそういうて。」

 芙美子の瞳が少し潤んでいるように見えた。

 広隆寺の境内は、思いの外静かだった。
碧々と茂った木々の間をゆっくりと時間が流れていった。
 先程までささくれ立っていた心が落ち着きを取り戻していくのを
私は感じていた。

 私たちは霊宝殿の前まできた。もともと聖徳太子と秦河勝にゆかりの
深い広隆寺には往時をしのばせる仏像の数々が安置されている。

「やっとお目にかかれるんやわ。ミロクはん。」

 芙美子の瞳に光が宿った。何かを決意したような眼だった。

「ミロクはんにお会いしたら、三邑はんに話します。いままでのこと。」

 芙美子は決心していたようだ。
私にも受けとめてやる義務がある、そう心の中でつぶやいた。
(2004.03.15)
Copyright(C) 2002-2004 結城 潤 

▼前号(18)へ  ▲次号(20)へ   ▲ひろの連載小説へ戻る

▲OfficeKOBAのtopに戻る